昭和四十八年六月八日 御理解第七十九節
「商売をするなら買場売場と云うて元を仕込む所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を拾銭かけるものなら八銭かけよ。目先は弐銭損のようでも安うすれば数が売れるからやはりその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。」
これは商売をするならと云うことではなくて、お道の信心をするならとこういう風に頂きたいですね。いや合楽に御神縁を頂いておる者ならと云う風に頂いてもいいです。
例えば商売人が買場売場を大事にすると云うことは、もう全てを大事にすると云うことですよ。他所が拾銭のものを八銭口銭をかけると云うことは本当にお客さんが喜んで下さる事の為なんですけれども、それは誰でもが喜んでくれる、神様が喜んで下さることを実行せよと云うことですよ。
体はちびるものではないから働くがよい。そういう例えば、おかげの中にあるのですから本当にその神恩を思い報謝の心がじっとしてはおられん、働かなければおられん、壮健に働かせて貰うと云うことが有難いと云うことになるのですよ。
ですからこれは商売をするならこれは商売に対する御教えのようですけれども、信心をするなら合楽に御神縁を頂いておるのなら、又合楽で御神縁を頂いて御教えを頂いて日々おかげの中に住まわせて頂いておるのなら神様に喜んで頂く、自分の周囲の人間が楽になる事の為に働き、云うならみんなが喜んで下さると云うことはそのまま神様が喜んで下さるような働きをさせて貰う。
体はちびるもんじゃないから神恩報謝の心があるのなら、その心を表現していくとするならば、じっとしてはおられん。働かなければおられんと云う風に頂くとこの御教えが大変広いしかも有難い事になってくると思うのです。
私は今朝からお夢を頂いておった。先日秋永先生とこの奥さんが四次元世界の真理と云う本を大変面白いからと云うて、まあ今読ませて頂いておるのですが、まあ普通から云うなら大変不思議な幽霊の写真を撮ったり物品引き寄せをやったり、まあ次元の違った私共の住んで居る世界が三次元の世界、低級な動物が住んでおる世界が二次元の世界。
だから信心をさせて頂いて次元が変わって来る。例えて云うとなめくじが例えばおへいぎの中に入れてあるとしますか、この上の事は分からない、只平面的な事だけしか分からないのが二次元の世界に住んで居る動物だそうです。
ですから例えば、このおへいぎの中になめくじが二匹入っておる。まあ仲良く遊んでおると致しましょうか。それを三次元に住んでおる人間が一匹ちょいと取ってから横へやったらです、それを神かくしに会うたと例えばなめくじは思うだろう。
そのなめくじを今度は又この中に入れてやったらこらもう奇跡と云うてたまがるだろう。三次元から見ておると全然当り前の事。変哲もないことをしておるのだけれども、そうだと云う風に説明してある。
ですからそんなら三次元に住んでおる私共が四次元の例えば世界の私共が一つ上の世界になってです、おかげを頂いていったら今のそれと同じ様な奇跡とか不思議とかと云う様な事が表されると云うことになるのです。だからそれが不思議だ、それをこの人は工学博士で東大を出た沢山いろんな発明をした方です。
念力と云うものを秤にかける機械を発明した。例えば、水平の秤がありますね。それに同じ重さのものをかけます。そして右なら右の方へ一生懸命念力を送りますとね、今の水平の重りが重くなってくる。これは私でも出来るです。私の念力をもってするなら出来るです。念力というものにはそういう働きがある。
東京とイギリスに同じ時間で東京からある非常に念力の強い人がどんどん念力を送ると向こうの方でそれをキャッチしたしるしがあるそうです。ですからもう、時間空間を問わない。
本当いうと例えば、こちらから祈ることがそんならイギリスの方でです、祈る前にもう既にキャッチすると云うことも出来る。これは又次元が違う。そういう事は合楽では何時もあります。
お願いをする前に神様がちゃんと先回りをしておかげを下さってあると云うのはそれなんです。
欲しいなあと思わなくっても、欲しいと思う前に神様は用意して下さる。もう合楽の場合はいつもこんなおかげを頂いている。それはもう、どこをどう読ませて頂いても合楽と云うところは大変な所だなと私は思います。
今朝のお夢がね、私が今こういうもの読んでるから、又夕べ総代会でその事を話したからかしらんけれども、今朝からお夢を頂いた。私が半年ほど現地召集を受けて兵隊に行って居った。そん時の戦友の様でもありゃあ、その人達が四次元の世界が分かる一つの霊能者達の集まりと云った様な感じなんです。そして私が何か発表しなければならんので私が受けておる話を一生懸命させて頂いた。
これは神様の次元と云うものは、もうこれからまあだどれだけの次元があるやら分からん。天地金乃神様と云う次元は五次元六次元位のことじゃない。もう一番奥の奥の次元でこれは到底人間が知ることは出来ない次元であるとこれにも説明してあります。私もそうだと思います。
私がこの中の説明に素晴らしいこと書いてあると云うことは教祖が仰っておられる様に人間は皆んな神の氏子と云う風に表現しておられます。
それを例えば、人間は丁度海に浮かんでおる島のようなものだと言っておられます。ですからこちらの島、あちらの島と云うて島は違いますよね。けれどもその根底になるものはみーんなつながっておるのだと云うのです。
やはりいろんな科学的なこういう研究からそういう事が分かってきた。教祖はもう何気ない風に言うておられた。教えておられることが大変な広い深いものであると云うことが色々感じさせて頂くのですけれども。
私が発表しておる。私がおかげを受けておる話をさせて頂いたら、もう四次元の世界の人達がたまがってるところでした。いやあそれはもう、五次元とか六次元じゃないと云う様なその感嘆しながら私の話を聞いて・・・
私が兵隊に最後に私共の中隊が守備に当たったのは山西省のずーっと山の奥のタービンツアン大坪荘と云う村でした。
それは今でも私はそれを本当に不思議なことだと思うし、同時に尚不思議だと思うことは私が見た限りの支那の字引では坪と云う字は無いのです。平と云う字は有ります。
ですから私のことを平いと云う字でターピンセンション、ターピンセンションと支那人は読みました。私が土編に平いと云う字を書いてもそういう字はないと支那人は言うのです。
ところが実際はその支那の山西省の山奥に大坪荘、荘と云うのは大きな村と云う意味なんです。ターピンツアンと云うのです。
その一番最後の所にターピンツアンと云う所の守備に入って非常に奇異な感に打たれた。不思議な感に打たれたと云う話をさせて頂いたらその四次元の世界の人が感涙して泣くんです。そこで目が覚めた。何と云う素晴らしいことかと云うことなんです。
それ以来私の信心も段々少しづつ成長して参りました。そして今日に至っておる。
夕べ総代会で森部の高山さんが発表しておられました。先日からとうちくとうの苗が今非常に評判が良くて高価に売れる。だからどうでもそれを継ぎ穂したいと思うけれども、今そのとうちくとうと云うのが継ぎ穂する程しに無い。ところがたまたま娘の所の新築を致しますので夫婦でお手伝いに行った。
ところがお手伝いに行ったその近所にです、家をとった広い屋敷跡があって、そこのもう大きなとうちくとうの株が三株ある。それでその地主さんを尋ねて行ったらすぐ分かった。そしてもうここは駐車場にしたいと思いよるから取って下さいと云う様なことであった。それでそんならその明くる日娘達にも応援して貰って沢山持って帰ってそしてそれを全部挿した訳です。丁度昼の十二時位までかかって継ぎ終ったらあのお湿りでございました。
もうその間の事はまあだまあだ細かに言えばもうそれこそ神様のお働きの微に入り細に渡っておることに恐れ入って仕舞うというお話。そういうのが先生もう日々でございますとこう言うのです。
私は四次元の世界を分かってる人が今の話を聞いただけでもそういう事が有り得るだろうかと云うのです。
何故って、天地が自由になってござるだけではなくてですね、必要な物品がそこにあると云うことなんです。しかも天地が自由になってござると云うことです。四次元の世界では天地を自由にするような働きは出来んのです。
これは高山さんの所で以前、長男の英機さんが福岡から森部までトラックで行くときに途中で運転免許を紛失したんです。明くる日すぐお届けに来ました。それから幾日かして、又福岡へ行く用件があって参りました。ところがどうした事か車が途中でえんこしたんです。だから何処が悪かじゃろうかと思うて結局降りて調べる前にちょいと畦道をこうやってから立小便をした。
ところがどうですか、その立小便する前の方にですね、自分が紛失したと思われる運転免許証がチラッと草の葉影に見えとる。それこそ小便まり終ってから見たところが何と自分が紛失した免許証であった。それは森部から福岡までの何十里の中にです、丁度自分が紛失したそこにえんこすると云うこと。そこで立小便をしたと云うこと。そこに目が行ったと云うこと。とてもとても五次元も、いわゆる次元の高あい所からの指図と云うものがなからなければ出来ると云うことじゃなか。
例えばお互いがふがよい、例えばサイコロの目を五なら五の所を二回同じ所をすると云うことはもう大変な事だそうです。それはインチキでない限り。
だから偶然と云うものはそんなに幾つもあるものではないと云うことです。それが合楽の場合皆さんが体験しておられることはです、もう毎月毎月が偶然毎日毎日がと云うことなんです。
二・三日前私は午後の奉仕にここへ話ながら来ていました。「今日は鰻の蒲焼きのごたるコッテリしたもんもが食べたいな」と冗談言いながらここへ座ったんです。
それから三十分後に高橋さんのお母さんが参って見えまして久留米の寿司勝つのおかみさんと一緒でした。
午前中にお参りをしましたから、もう実を云うたら寄らんでもよいのですけれども、田主丸まで丁度昼だから食事に行こうやと食事に行った。
ところがそこで美味しい鰻の蒲焼きを出したからこれは美味しい、親先生がいつかお好きと云いよんなさったからこの熱いとを持って行きましょうやと云うて、又わざわざバスですからここで途中下車をしてそれを持って見えた。
それからそれを届けられただけですから、すぐ帰られながら丁度たまたま高橋さんが何か久留米に用で行っておられてから又ここへ寄られた。そこで一緒になられた。それを私は妹が丁度そん時に参って来とりましたら、今丁度高橋さんの車にお母さんが乗っておいでられるところだったと言うから、はあーもう本当に素晴らしい事だなあーと、はあー偶然丁度良かった、ふが良かったなんてんちゃ言えないでしょう。しかもそれが続いてご覧なさい。
それを私共はですね、あまりにももう当り前の様になっている。云うならばそういうお繰合わせ。例えば、それがもうちっと進んで参りますと又次にです、高山さんが発表しておられましたが、例えばそういうことではなくて、右と願えば左、左と願えば右と云うことが親先生又大変なことですとこう言うておられる。
そのことが又有難いと受けてゆけばです、成程その事がおかげの元になって来るのですから、いよいよ有難いのです。
合楽ではそういう例えばです、次元の高い祈りとか働き、云うならば金光大神の世界と云うのはです、もう私共が計算することの出来ない程しの高度な次元なんです。金光大神御取次の世界と云うのは・・・・そういう例えば、おかげの中にそういう働きの中に私共がこうしておかげを頂いておるのであるから、今日私が皆さんに申します商売をするならではない、そういう有難い合楽に御神縁を頂いておるのであるから、その報謝の気持ちででもその感謝の意味合を持ってでもです、神様に喜んで頂く、よしそれが商売人であるなら売り場買い場を大事にし十銭で売るものは八銭で売る様なです、奉仕の生活に入らなければその神様の対して相済まぬと云う気になりはしませんか。
昨日、これは佐田さんの発表でした。
もう本当に日々あの恭造と云うのが御長男、佐田さんです。もうお店から帰って見えると奥さんとお母さんの前で今日はああじゃった、こうじゃったとおかげ話をなさる。あんたそういうおかげ頂いて毎日どうしてお取次頂かんのちそげん申し上げると親先生がどしこ喜んでかわかとらんとに云って申しますと、人がこげんとがあるけん買わんかと、何気無しに売りに来るけん、何気なしに買うたらもうその次の瞬間には値上がりしとる。もう売る買うことについて、皆さんも御承知の様に、それこそ例えて云うならば、神様に喜んで頂く様なです、売場買場を大事にしておいでられ、しかも人が十銭で売るものは八銭で売ると云った様なです、これは高う仕入れとるけん、安う仕入れとるけん、どっでん高うなっとるけん高う売ろうてんなんてん云う様な根性でなくてです、とにかくお客さんが喜んで下さればよいと云う商売のところに、それは私が毎日お届を聞かんでもです、この行き方なら必ずおかげは頂けん筈はないと私は思うとります。だから聞かんでもおかげを頂いて有難うございますとお礼を云われる中にそれを全部感じる事ができるです。もう当然なんです。
これは昨日佐田さんの奥さんがお届けをしとられました。今日が丁度あちらのおじいちゃんの百日祭です。もう本当に先日から竹内先生んところの五十日祭に竹内のおばあちゃまが伊万里市長と云う大変な役をしとりますから、お父ちゃんあんたの御用のじゃまにならん様な時にお国替えのおかげを頂かにゃならんて云うとられた。それがもう、親先生十日二十日三十日四十日五十日祭とすーっともう私の全然かかりのない時間の時にです、土曜か日曜ばっかりでした。今度十日祭も丁度日曜に当たりますと云うとります。
これは秋永のおじいちゃまの場合でもそうでしたね。皆さん行かれました通り、なら丁度佐田さんところの百日祭を私が仕えさせて頂くのも、もう必ず八日の共励会とかあの皆が集まって下さる日だとか、今日もあちらであります。
だから家のおじいちゃんは喜びと賑やかなことがお好きじゃろうかと思う位で、例えば云うならばまだ五十日祭百日祭と云うのは生々しい。云うならばお祭りなんですけれども、それが生々しく淋しいとか悲しいとかでなくて、それこそ何とはなしにお祭りの様な雰囲気で、あれが仕えられると云うことはもうどんなに考えても有難い不思議なことだとこう云う。
例えば、んなら秋永のおじいちゃん、今年亡くなられた方達のそういう、こういう偶然が続いてよいものでしょうか。
とてもとても高度の次元からのお指図があっての生まれるであり死ぬるであるから、生きることも死ぬることもまた私は合楽に御神縁を頂いておる人達は有難いと思わねばできんと思うです。
まだ今年に入ってからお年寄りの方達ばかり亡くなられた。それがです、その様なもう本当に差障りの無い、そこに独特なそこに例えば、竹内さんとこで云えば竹内のおばあちゃんの願い通りのです、云う様なことはそれを聞き届けて下さる。神様がどの位次元の高い世界から指図してあるかと云うことが分かるでしょう。
それこそ天地が自由になる。とても四次元、五次元では天地が自由になることは出来ません。
どんなに科学をして天地に働きかけましてもです、それは出来ません。ところが合楽の場合はそれで出来ておる程しのおかげを受けておる中に私共があるのですから、よしにつけ悪しきにつけ全部神様の御神慮、云うなら御神愛の中にあってのことなのですから、お礼を申し上げねば居られんのであり、お礼を申し上げるその印がです、お商売をするならば、売場買場を大事にする。お客さんに喜んで頂けばよいと云う精神。神様に喜んで頂けば良いと云う仕事、いわゆる事に仕える。働く、他を楽させる、そういう働き同時に働くと云うことは自分の体はちびるものでないから、その神恩報謝の思いを込めて本気で、不精なことでなくて本気で働かせて頂けれるおかげを頂かなければ、そういう素晴らしい働きの中に私達がです、此処に神恩を感じて報謝の生活をしなかったら、いよいよ相済まんと云うことになるのじゃないでしょうかね。
私共はとてもとても、いわゆる金光大神御取次の働きを受けられる次元と云うのはそれはもう、云うならばですね、最高の次元にあると云うことが言えます。してそういう働きのところからお指図を指示するわけです。
例えば霊感と云う様なものは或次元からこうやって放射される指示だそうです。ですから私共の場合はもっともっと高い次元からです、そういう働きを受けておると云うことを如実に日々の生活の上に頂いて行けておると云うのですから、これに対して神恩報謝の生活に入らなければいよいよ相済まぬことになるのですよね。どうぞ。